びぶりおてか

私家版 Caffè Biblioteca

可淡



昨今のフィギュアやゴス流行りのせいか、いろいろな人形作家さんの
作品を見る機会が多いのだけど、残念ながらやはり可淡氏の作品に
およぶものに出逢えない。
これがやりたかったんだろうな、とか狙いの主旨は理解できるんだけど、
どうしてもそればかりが先行してしまっていて、タイトルありき、な。
悪く言えば人形が其処に存在している理由がまったく伝わってこない。
つまり、おいてある人形が見る物をまったく惹き込んでくれない。
それって、dollという作品ジャンルには致命的なんではないのだろうか。


無造作に投げ出されたかのように置かれているその人形の角度一つで、
その瞳の光彩や翳り、頤から耳にかける線で、そこに居る
前後のストーリーが幾通りでも彷佛させられる、
この時間の経過の先にあるのが絶望や憂いなのかを予感させるチカラ。
それによって、観る側のイマジネーションに働きかける存在感が
「ブキミだ」「なんか恐い」という単純な表現となっても、それは本物。


最近の作家さんの作品を観るときはなるべくニュートラルな状態で
いるよう勤めてるつもりなんだけど。
ただグロテスクに、突飛でエログロに、縄で縛り逆さにつるし、
裸体をやぶる異形や箱詰め。
完成図と固定されたストーリーを描ききっているならもうそれで
絵でも描いておわりでいいじゃん。とおもってしまうことが多く、
グループの展覧会など、どこで作家が変わっているのかさえ判ら
ないほどうんざりする。


ちょっと言い過ぎ。自分で造れもしないくせに・・・。