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びぶりおてか

私家版 Caffè Biblioteca

東京国立近代美術館



会期:2010.9.7-10.17





名高い《焔》を東博の平常展で見ていたかどうか曖昧だったこともあり、早々に足を運ぶ。





見事な程美人画がならび、既に第二展開目には件の画が現れた。


やはり、これは観ていれば曖昧になどの凝る代物ではないわけで。
六条御息所といえば、源氏物語をなにかとややこしくしてくれる、さすがに源氏さえ気の毒になるほどのめんどくさい女性というイメージしかないが、こう描かれると、気高さ故に得た女の拠り所を失った自我の崩壊がこれほどに狂おしく響いてくる。狂と知の紙一重の気高さは私の中では芦雪の山姥と並ぶな。
もう一つこの章で時間を掛けてみる事になった《花がたみ》、これは後のデッサンを展開する室でよりいっそう深く残ることになる。
形見に残された歌と花籠、視界を閉ざされ壊れて行く女の姿が観る者の脳のなかで舞う。「あっけない」というぽかりとした空しさが何よりも恐ろしく感じられた。




いくつかの作品には、北斎の合わせ鏡や、桃山期の遊女など、浮世絵美人が、松園の美人画となって再現されている。
松園の美人画は男性的だ。
女性は常に、男が求める女性像に手を焼く。いっそ彼らが思い描くままの女性であれたらこんなに楽な話はない。彼女の描く女性は実際の女としての理想だ。こうでありたいと願う、身近であり、憧れる女性がいる。努力すれば少しは近づけそうな生身の美人がそこにいる。
私は女性作家の作品には、なかなか馴染めないものが多いが、彼女の画にはそのアレルギー反応が一切出ない。


文筆家も含め、女性作家の作品とは、女自身だから知り得る女のグロテスクさを赤裸々にする事で評価を得ることが多い。しかしそれは、創造の泉から滾々と湧く物ではなく、同性としては目も当てられない、つたない表現の為に、たしなみさえ捨てた愚かさにも映る。
これが私のアレルギーの原因だ。昭和の終わり頃からそういった女性アーティストが何人か注目を集めて来たが、ほらみたことか、今やどこに居るのやらだ。創造の美とは血なまぐさくとも、グロテスクであっても、即物的なものではすぐに枯渇するのだ。


栄耀を極めた近世日本画から取り残されたかの近代日本画も、表現するということの重みを改めさせられる。本当に面白いんだ。






上村松園展Uemura Shoen
東京国立近代美術館
会期:2010.9.7-10.17


もっと知りたい上村松園

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価格:1,680円(税込、送料別)







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