中村正義ノ源平海戦絵巻五部作ヲ観タル事
終始ものすごい負のパワー。
でも、練馬区美術館の石川徹也展でおわされた負のパワーとは確実に違う。
あちらは目を背けてもエネルギーを吸い上げられてしまう行きずり地獄だが、
こちらは「こまったな」と手に負えない病みが延々と続くが、
目をそらす気にもなれず、かといって同情を受け入れてもくれない。
そんなら気が楽だ。
目的の作品が現れない焦りも忘れかけた頃、最後の一室にくだんの五部作があった。
五部作を一度に見る事に意義はあったが、
特に一番見たかったのは、初見の第一図 紅白吐霓
(コウハクトゲイと読んでいいのかは未だ不明)。
五部作でこれだけが二曲一隻の屏風仕立て。迫央位置は左下から沸く白幟の平氏側に立つ。
未だ見ぬ筈の結末を物語るかの如く、赤幟の軍勢は右上方から今にも群れかかってくるような、一瞬の静けさを描いている。
片や残されたよすがは地の利だけとなった決死の一族。
対する片やは政治的機微もまったく理解していない義経を筆頭に、
瞬発力が大半を締める運動神経だけでここまで来た体育会系。
戦場”一番乗り”が信条の血気立つ野ザルの群だ。
わずかに平家寄りの嫌いがあるのは感傷相まっての立ち(鑑賞)位置のせいか・・・。
下関の海波さえも固唾を吞む静寂の中、最も隣接した二艘に、武者がきりきりと引き分ける弓の音だけが聞こえる。
一触即発の凪を変える一吹きが今放たれようとしている。
歴史とはいったいどこまで遡れば、変えることができるんだろう。
清盛が不老不死の身を手に入れようと鉛中毒になどならなければ?
鳥羽院が後白河の即位を阻止できていれば?
圧倒的な勝利の杯もつかの間、義経も範頼も直、終には誅される。
因果も応報も人々の思惑も折り重なり、時が大きな塊となって動く。
それでも、遅かれ早かれ武家や東国の台頭は起こるべくして起こるのだろうけど。
この絵の前に立った途端、こんな妄想の中に引きずり込まれた。
源平海戦絵巻 1964年
第一図 紅白吐霓 彩色 紙本 屏風2曲1隻
第二図 海戦 彩色 紙本 額1面
第三図 玉楼炎上 彩色 紙本 額1面
第四図 修羅 彩色 紙本 額1面
第五図 龍城煉獄 彩色 紙本 額1面
東京国立近代美術館 所蔵