『神曲』新訳 翻訳者原基晶先生の講座3回目
読むといっても、神曲から何を読み取るのかということ。
著者であり登場人物であるダンテが追い込まれた環境と、世界の転換期。
彼がそれに何を吐露し伝えたかったのか。
講義で当時の歴史観が解かれていく様は歴史脳がびんびん呼び起こされるので、暴走を抑え、古典文学の枠を意識しつつイメージを広げていく作業がなんとも刺激的。
『神曲』地獄篇 第四歌 39行 (前後略)
そしてこのような者達の中に私自身もいる。
切ない。この一行がなんとしても切ない。
地獄の第一圏リンボに入り、その光景の意味を問わないダンテにウェルギリウスが自ら語る中の一節だ。
ページ中最終行に来ているという相乗効果なのか?と疑うほどに、言葉のトーンが生きている。
今回はそのことを先生に是非とも話したかったのだが、それに対するダンテの反応の薄さも合わせて講義で触れられたので、そうか、よかった。納得。
第1歌で光り輝く徳のごとく現れダンテの導き手となるウェルギリウスは、しかしこの世界でいう「神」を知ることがなかったために、希望も望めず、断罪すらされることのない虚空、リンボに影としてある。
第四歌で、ダンテは古の死者達の罪を選別し、それぞれの地獄圏に定義していくが、登場人物のダンテはウェルギリウスのこの言葉をあまりにあっけなく流す。
「ここでいきなり?!」という大きな動揺と重い切なさに襲われているこちらとのギャップは凄まじい。
ここで再度第1歌を読み返せば、よくよくその切なさも増しつつロジックがまた一つ埋まるわけだが。
ダンテにしてみれば、「ああ、そういうことであれば、そうですね、あなたはここにあるわけですね」という当然の反応であったのだろうか。
どうやら、彼らの世界観では、正しければ天国へ昇れるというわけではないのだ。
「神」は信じて敬われることでその存在を得ているということか。
あ、ダメだ、その解釈では異端者として第6圏で石棺にいれられる。
追い詰められた現実にダンテが見ていたもの。そのあとを追う旅はまだまだつづく。
他の訳本で『神曲』を手にしたのはもうかなり前のこと。見事に挫折した。
信仰とは、人に言葉を与え、倫理と術、そして文明と争いをもたらした、生の根幹だと思っている。猿に与えたボールペンなのだ。
はじめはそれを確かめたくて、辿り初めた道だった気がする。
今はその高貴であるはずの信仰がまた歪みを見せはじめている。
人はその階層に隔たりなくただ平穏な営みを得ることを、争うことで発展をしてきた長い歴史の終着地に見いだせるはず。
人類が犯してきた罪によって理性を高めてきたのなら、なお700年を経た今、言葉で説き、文明の知力でそれを求める時なのだと、彼は言うのかもしれない。
原先生の翻訳はここまで思考を暴走させる。美しくも重厚に放たれる言葉も、揺るぎない知識も、神がこのために授けたのではないのだろうか。
素晴らしい出会いに感謝している。