新訳『神曲 地獄篇』 訳:原基晶/講談社学術文庫版 読了ス。
『神曲』地獄篇を読了。
やっとだ。やっと最初の一冊、全100歌中の34歌を読み終えた。ほぼ通常の三倍の時間とエネルギーを費やしたと思う。
この新訳版を手に取ったのは昨年末。発刊をどういったきっかけで知ったかも覚えていないが、手に取ってみるために丸の内の大型書店に向かったんだった。
この新訳版『神曲』の冒頭には、”「地獄篇」を読む前に” として、著者(この場合訳者)の前書きが設けられている。大変失礼ながら、その最初の数行を読んで、「読める。おもしろい。今度こそいける気がする」。という根拠不明の確信を自覚した。
それが以下、出典とともに紹介したい。
『神曲』の主人公は作者ダンテ・アリギエリその人である。そして『神曲』は、西暦一三〇〇年の復活祭に、そのダンテが、地獄、煉獄、天国の彼岸の世界を旅して神に出会うまでを描いている。私達読者が作品に深く入り込むためには、一三〇〇年までの彼の実人生と、一三〇〇年に彼を取り巻いていた状況を知っておいたほうがよい。そこで作品に入る前に、ここでそれらについて伝えておきたい。
美術史も含め、古典の理解には一番重要な検証だが、古典の翻訳本にそこまで親切に導入を助けてもらえるとは、その時点で涙が出る思いで胸に抱いた。
『神曲』地獄篇/序歌含む全三四歌、煉獄篇、天国篇各三三歌、計一〇〇歌が三行一連の詩型を成し、全14,233行。まずは数字を並べて心を落ち着かせる。
それでも気弱に地獄篇だけ購入し、青ブク本店で開催されたトーク&レクチャーに参加。
2014年12月13(土)
ダンテ『神曲』の衝撃 〜14世紀の叙事詩は西欧文化に何をもたらしたのか〜
この時のトークはいろいろ面白い話があったが、書いていいのかわからないのでやめておく。ただ、後述の1300年代写本のレプリカなど、貴重なものも見せていただいた。もともと頭でっかちな気質で、こういうレクチャーを事前に受けてしまうと、中世史の概観だけでもさらっておかないと落ち着かず、とりあえずは「就寝前に一歌ずつ朗読」という娯楽に徹し、とにかく、私の中では皇帝ネロの自害で終了し、ルネサンスまで虫食いでボロボロになったローマ帝国史を更にくだり始めたのが今年の幕開けだった。
その間、翻訳者である原基晶氏の公開講座が8月から1/月のペースで開講し、参加。前後計千年の歴史が混沌を極めつつある脳の整理がここで行われていく。
翻訳者の原基晶氏による『神曲』についての論文は数報所在は確認できているのだが、該当のの学会誌を閲覧できる環境が私の周りになかなかなく(文学史弱。。)、唯一、一般書籍で拝読できるものが大学の図書館で入手できた。
「失われた自筆原稿を求めて
出典:『書物の来歴、読者の役割』2013年 慶応義塾大学出版
著者/編集 松田隆美
これは、地獄篇序歌となる第一歌冒頭の三行の解釈を、翻訳にあたってどのように検証するか、という内容が、2万字以上に及び説かれているドラマチックな内容。
Nel mezzo del cammin di nostra vita
mi ritrovai per una selva oscura,
ché la diritta via era smarrrita.
La Commedia secondo l’antica vulgata, 2Inf.,
a c. G. Pettrocchi, Le Lettere, 1994
Nel mezzo del cammin di nostra vita
mi ritrovai per una selva oscura
che la diritta via era smarrita.
La Divina Commedia, Inf.,
a c. N. Sapegno La Nuova Italia, 1991.
前者、今回の新訳底本とされたというペトロッキ版と、後者、ナタリーノ・サペーニョの注釈版とで、2行目末のvirgolaおよび、3行目頭 cheへのaccent それぞれの有無を、どう扱うかの判断に迫ってゆく。
(たとえば、cheのアッチェントは同音異義語を表すため有無で意味が変わる。また、印刷技術が無かった1300年代の写本には、正書法が確立されていゆえに、著者の意図を伝えるための記号は存在しない。なので当然、発言を示す鉤括弧などセリフの概念すら無いのだそうだ)
これらの検証の解決(というか訳者の決断)が、以降1万4千行あまりの行く末を決める、という覚悟がここにあった。その妥協を許さない態度は爽快であり、論文内は節の処理の美しさまで際立っている。本当にこの先生の文章は洗練されていて美しい。
冷静になって考えると、最初の三行でこれだけのエネルギーを使っていて、この先残りの1万4230行、この方の命の灯火は最後まで持つのだろうか、と心配にすらなった。
>元気に毎月講義をしてくださっておりますので、大丈夫です。
この論文を先に読み終えることで、地獄篇へ立ち向かう私のスピードが格段に増した。繰り出される言葉は、みるみる自分に吸収されていき、その世界との対話が始まる。その世界は、登場人物のダンテ、その導き手となるウェルギリウス、著者であるダンテは訳者である原基晶氏の筆を借りそこに存在する。そして読者となる私。地獄の道行きには恐縮なほどの大所帯となり、ウェルギリウス以外は生身の総勢5名の旅だ。
家での読書は傍にこの2冊。あるととっても便利。
下るほどに残忍さを増す旅路の途中、あまりのむごさに涙したり、事実の理不尽さに驚き歯噛みしたり、切り立つ崖に阻まれくじけた心をウェルギリウスに癒され、また進む。後半のウェルギリウスが時間という軸でダンテを急き立て始める様は、どこか人間味があって面白い。高踏な言葉の世界にある彼が、下劣な会話に聞き入るダンテを叱責するシーンは、二人のやりとりを前に吹き出してしまっていた。
前後するが、二十四歌で次なる巣窟へ進むための断崖を登り力をなくすダンテをウェルギリウスが言葉で奮い立たせる。世に正しく伝えたくば、ここで打ちひしがれている場合ではないと。これはまさにダンテが伝えたかったことを世にもう一度正しく伝えようとする訳者が向き合った言葉ではなかろうか。こうやって何ども、言葉に心が震えるのだ。
『神曲』はただの詩集ではない。
ただひとえに、神を信じ崇めることを奨励する賛美歌集でもない。
だから、並んだ言葉の上をただ目を走らせ、描かれた情景をイメージするに終始するのでは「読んだ」ことにはならないのはうすうす感じていた。この訳本のように「そうか、で、その先は」とのめり込ませるあの冒頭数行のぐいっと手を引く力がなければ、この長い旅のスタートを切ることはできなかったと思う。読解力の乏しい私にとって、翻訳本は翻訳者のことばが自分に入って来やすいものでなければ通読は困難を極める。もともと難解な原典を難解な日本語で訳されたところで、素人には真意は伝わってこないのだ。
先述の通り、この新訳を手に取ったのは昨年末。それまでに数ページで挫折すること記憶にあるだけで2回。持っていた私の最初の『神曲』は、それ以上のページをめくられることもなく、初めて自分のライブラリを古書店へ持って行った箱に、それは入って行ったと思う。
作品と相性が合わないのだ、とは思いたくなかった。知らないままではおけないと、ずっとどこかに引っかかっていた。
今ここで、奏でるような言葉に出会えたことが神慮であることを信じたい。
だが、地獄の旅は序章でしかない。やっと望まれて訪れる煉獄の扉を今これから改めて開かなくてはならない。それが楽しみでならない。
あと、初めて覗き見た西洋文学会の戦いの恐ろしさも少し体感したことを付け添えておきたい(笑)