びぶりおてか

私家版 Caffè Biblioteca

SIMONDOLL 四谷シモン展 

四谷シモン氏の纏まった作品を見るのは今回が初めてかもしれない。
国立近代美術館の収蔵品と、以前アニメのおかげで球体関節人形がにわかブームとなり、東京都現代美術館というやけにアクセスの悪い美術館で、特別展が開かれた際だ。
ひっそりと亡き天野可淡氏の遺作が展示されているのを知り、最後になるやもと訪れる事になった展覧会だった。若手作家達の自己満足に、呼吸器官を捻り潰されそうになりながら、嫌悪感と虫の息でシモン氏と吉田良氏の人形に辿り着いたんだった。
 
f:id:itifusa:20140614090942j:plain
 
今回の横浜そごう美術館での展覧会は、ご本人のTwitterで随分前から公表されてらしたので、楽しみにしていた。
 
 
f:id:itifusa:20140614090958j:plain
 
展示は、プロローグから、レースアップブーツの少年達、真っ赤な唇の少女人形へ。
展示ステージに1個体が何の舞台装飾もなく設置される。
続く室は、機械仕掛の人形。露になった内蔵はゼンマイ仕掛けで、不躾な視線にさらされている。
浄瑠璃人形の様に角度で表情を変えるし、意志を持つ瞳は、まじまじと覗き込むこちらへ、どれだけ侮蔑した視線を返してくることか。
なのに、幼体故の色気を発するはずの肢体は、限りなくアンバランスに無機質。
それは、「人がた」、人形であることを、戒めの様に見せつけている、一個体なのを認めさせるジレンマ。
 
「人形は人形なのだ」
 

f:id:itifusa:20140614091112j:plain

 
透き通る肌に求める理想は、目の前に造形を成しいても、
美しい括れの腰を金属のスタンドで支えられて立つ、人形なのだ。
求めても放り出される不安と快感。それを箱に詰められた人形達が放つ。
それがシモンドールの世界観なのかもしれない。
その焦燥の中で次第に求めるのは、腐敗して行く屍姿の娼婦が放つリアルと、神の救済の世界。現実の美は腐敗であり、神の救いは人の理想が作り出す、無機質な偶像。
彼らは完璧な理想の姿を持ち、ガラスケースの中から冷たく、時に生暖かくこちらを見てくれている。
 
f:id:itifusa:20140614091053j:plain
 
今回の展覧会で思うのは、
これらシモンドールのコレクションは澁澤へのオマージュだ。
少女コレクション、発展途上の中性性。、冷感症崇拝。
天使のセックスレス。人形愛と自動人形。
人形へのシンパシーと自己愛。
 

f:id:itifusa:20140614091024j:plain

この展覧会を見る前に、澁澤の『人形愛序説』を読返して行かれる事をお薦めしたい。

『人形愛序説』(1974年10月第三文明社 初版)
  『ビブリオテカ澁澤龍彦Ⅳ』(1980年1月白水社 再録)
 後者には、この展覧会で展示されている、澁澤の自筆原稿『未来と過去のイヴ 四谷シモンの個展』が、前者より削除となった数篇に代わって収録されている。
 
f:id:itifusa:20140614091134j:plain良質の鞣し皮を使った小さな靴達
 
たとえば澁澤は人形や天使への愛を、幼さの秘めたる無垢な気まぐれと残虐性、肢体の発展を留めたその姿その存在を求める精神を、人の美学たらしめた。滴るような生臭さも澁澤のことばが崇高な精神に変えていくのを見て来た。
 
f:id:itifusa:20140614091156j:plain
 
その手が作り出し偶像に魂を引き込むあの美しいことばが途切れる時が、やがてくる。
ここにも一人、澁澤がこの世を去った事で、大きな喪失を受けた芸術家がいた。

アーティストの自己愛とは、美を作り出す事ができない私には一番の難題だ。
無機質と不完全の美に、永続的な人形の魂が存在する。それだけは、私にも見える。
 
 
澁澤龍彦 著作
『人形愛序説』(1974年10月第三文明社 初版)『変身する四谷シモン(1972年2月 アンアン初稿)
『未来と過去のイヴ』四谷シモン人形展1973年10月27日〜11月17日 銀座青木画廊)パンフレット初稿
『歌うシモン』(『機会仕掛の神』四谷シモン 跋文 1978年10月 イザラ書房)
『メカニズムと少年
   あるいは男根的自己愛』(1980年12月3日〜21日 四谷シモン展パンフレット初稿)※自筆原稿の展示有り。用紙の末尾に著者名が印刷された専用の原稿用紙。
『シモンの人形』(『少女コレクション』序説 1985年3月中央公論社
ピグマリオニスム――人形愛の形而上学をめぐって』四谷シモン氏との対談)