びぶりおてか

私家版 Caffè Biblioteca

どんぶり金魚の楽しみ方 著:岡本信明


どんぶり金魚の楽しみ方 世界でいちばん身近な金魚の飼育法

岡本信明 (著), 川田洋之助 (著)
池田書店 (2014/6/13)

 

目下、最重要課題は金魚の名前と、どんぶり探しだ。

 

そして、未だ見ぬお友達の、

移動スペース確保、お留守番時の快適さ、

スマートなお世話の為の、最大のソリューションは部屋の片付け

 

毎日の水換え方法は、既にシュミレート済だ。

病気が発生したときの為のブクブクと、薬浴剤、バケツ、浮くエサ、是等が週末のお買い物リスト入りしている。

 

この一冊で、愛が溢れて、夢が膨らむ一方の毎日になった。

 

まずは、部屋の片付けだ。

 

『睡眠-Sleep-』勅使川原三郎@東京芸術劇場

勅使川原氏の舞台、何年ぶりでしょか。
あの時点よりもバージョンアップがまだあったのですね。そりゃそうか。
 
東京芸術劇場の樂日。

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土着の舞踊は、大地に気を降ろすことで得る感覚で、
西洋で中世に発祥したバレエの場合は上へ上へと、より高く向かう物理的な能力を求めるのではないか。
勅使川原氏の舞踊はそのどちらにも属さず、そこにある空間そのものとして存在する。
 
激しい動きであっても、それに無駄が一切無いから空気は微動だにしない。
人の脳が、身体がリミットを外し、その並外れた身体能力の前には、
もはや三次元以外の境界に立ち入っている気さえしてしまう。
 
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古代信仰の思想に近い表現を借りるなら、空間という区切られた次元に在る不可視なはずの存在を、今この時だけ現し、知らしめられているような。
神とか精霊といった次元ではない、意義のような、
性別や人格の区別を許さない「存在の意義」だ。

光が絶対的な境界を作り出し、そこに切り取られた空気は、
音を伝える為だけの物質にすぎない。
彼の存在がその空間に在る以上、ただ控えて待つだけの物質だ。
 
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感動に勢い衝かれた饒舌の嫌いがあるが、不可視的存在を目の当たりにしたトランスとは、それこそ彼の思うツボなのではないか。
 
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最終譚、真っ白な衣装の佐東利穂子氏の、全てを制しつつも、ゆるやかに臥していく様。
胸を締め付けられる様な感動に、目頭が熱を帯びた。

失敗した。東京公演、もう一回観ておくべきだった。
 
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それでも、あの方の頭の中はこんな感じ。
 
 
勅使川原三郎氏のインタビュー動画の視聴と、タイトルコンセプトは、
余計な事を考えずに見たかったので、敢えて見ずに、先に舞台を観たが、
狙っているコンセプトがダイレクトに伝わって来ていた事がわかる。
少しでも共鳴できていたのではないか、と遠慮がちにも嬉しい。
この人の表現というエネルギーは人智を凌駕していくんだ。
 
もう一回観ておくべきだった。東京で。
 

 
 
勅使川原三郎新作 世界初演『睡眠-Sleep-』

構成・振付・美術・照明:勅使川原三郎
出演:オーレリー・デュポン佐東利穂子勅使川原三郎 他

東京公演:東京芸術劇場 8月14日(木)〜8月17日(日)

8月21日(水)19:00 愛知県芸術劇場大ホール
8月23日(土)18:00 兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール

SIMONDOLL 四谷シモン展 

四谷シモン氏の纏まった作品を見るのは今回が初めてかもしれない。
国立近代美術館の収蔵品と、以前アニメのおかげで球体関節人形がにわかブームとなり、東京都現代美術館というやけにアクセスの悪い美術館で、特別展が開かれた際だ。
ひっそりと亡き天野可淡氏の遺作が展示されているのを知り、最後になるやもと訪れる事になった展覧会だった。若手作家達の自己満足に、呼吸器官を捻り潰されそうになりながら、嫌悪感と虫の息でシモン氏と吉田良氏の人形に辿り着いたんだった。
 
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今回の横浜そごう美術館での展覧会は、ご本人のTwitterで随分前から公表されてらしたので、楽しみにしていた。
 
 
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展示は、プロローグから、レースアップブーツの少年達、真っ赤な唇の少女人形へ。
展示ステージに1個体が何の舞台装飾もなく設置される。
続く室は、機械仕掛の人形。露になった内蔵はゼンマイ仕掛けで、不躾な視線にさらされている。
浄瑠璃人形の様に角度で表情を変えるし、意志を持つ瞳は、まじまじと覗き込むこちらへ、どれだけ侮蔑した視線を返してくることか。
なのに、幼体故の色気を発するはずの肢体は、限りなくアンバランスに無機質。
それは、「人がた」、人形であることを、戒めの様に見せつけている、一個体なのを認めさせるジレンマ。
 
「人形は人形なのだ」
 

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透き通る肌に求める理想は、目の前に造形を成しいても、
美しい括れの腰を金属のスタンドで支えられて立つ、人形なのだ。
求めても放り出される不安と快感。それを箱に詰められた人形達が放つ。
それがシモンドールの世界観なのかもしれない。
その焦燥の中で次第に求めるのは、腐敗して行く屍姿の娼婦が放つリアルと、神の救済の世界。現実の美は腐敗であり、神の救いは人の理想が作り出す、無機質な偶像。
彼らは完璧な理想の姿を持ち、ガラスケースの中から冷たく、時に生暖かくこちらを見てくれている。
 
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今回の展覧会で思うのは、
これらシモンドールのコレクションは澁澤へのオマージュだ。
少女コレクション、発展途上の中性性。、冷感症崇拝。
天使のセックスレス。人形愛と自動人形。
人形へのシンパシーと自己愛。
 

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この展覧会を見る前に、澁澤の『人形愛序説』を読返して行かれる事をお薦めしたい。

『人形愛序説』(1974年10月第三文明社 初版)
  『ビブリオテカ澁澤龍彦Ⅳ』(1980年1月白水社 再録)
 後者には、この展覧会で展示されている、澁澤の自筆原稿『未来と過去のイヴ 四谷シモンの個展』が、前者より削除となった数篇に代わって収録されている。
 
f:id:itifusa:20140614091134j:plain良質の鞣し皮を使った小さな靴達
 
たとえば澁澤は人形や天使への愛を、幼さの秘めたる無垢な気まぐれと残虐性、肢体の発展を留めたその姿その存在を求める精神を、人の美学たらしめた。滴るような生臭さも澁澤のことばが崇高な精神に変えていくのを見て来た。
 
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その手が作り出し偶像に魂を引き込むあの美しいことばが途切れる時が、やがてくる。
ここにも一人、澁澤がこの世を去った事で、大きな喪失を受けた芸術家がいた。

アーティストの自己愛とは、美を作り出す事ができない私には一番の難題だ。
無機質と不完全の美に、永続的な人形の魂が存在する。それだけは、私にも見える。
 
 
澁澤龍彦 著作
『人形愛序説』(1974年10月第三文明社 初版)『変身する四谷シモン(1972年2月 アンアン初稿)
『未来と過去のイヴ』四谷シモン人形展1973年10月27日〜11月17日 銀座青木画廊)パンフレット初稿
『歌うシモン』(『機会仕掛の神』四谷シモン 跋文 1978年10月 イザラ書房)
『メカニズムと少年
   あるいは男根的自己愛』(1980年12月3日〜21日 四谷シモン展パンフレット初稿)※自筆原稿の展示有り。用紙の末尾に著者名が印刷された専用の原稿用紙。
『シモンの人形』(『少女コレクション』序説 1985年3月中央公論社
ピグマリオニスム――人形愛の形而上学をめぐって』四谷シモン氏との対談)




バルテュス展  東京都美術館にておぼえがき

 
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澁澤が、
バルテュス風の色とは、オレンジ色や黄色の褐色系、と青。
陰鬱で、くすんだ色。
だと言っていたが、展覧会の出口にある展覧会グッズ売り場には、
ローマ市街にある、バルテュスが利用していた画材店の絵の具が売られていた。
その色が、オレンジ系の褐色数種と青系色。
 
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バルテュス風の色、—それはオレンジ色や黄色や褐色や青を主調とした、何か暗鬱な、くすんだ、熱っぽさをうちに秘めた、曰く言い難い微妙な色である。」
    澁澤龍彦著『バルテュス、危険な伝統主義者(幻想の彼方へ)』1968年12月『みづゑ』初出
 
 東京都美術館で開催されているバルテュス展
手控え帳の公開や、画題の習作が多く含まれている。
日本画で言えば探幽縮図なわけで、それ等によって画家が何を書きたかったのか、
そのプロセスで、彼らが描く姿が見えてくる。
赤裸裸すぎて気の毒だ(笑)。
 
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エミリーブロンテの『嵐が丘』挿絵の為のデッサンが並ぶ。
キャサリンとヒースクリフの少年期からなる第1部までで、バルテュスは以降の挿絵の制作を放棄したらしい。
大人には興味がないのだ。
 
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是等の作品群について澁澤は、『幻想の画廊から』に詳しく解説しているのが、印象的だったので、かなり見入ってしまった。1室目で体力消耗。
 
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 真っ赤な布の装丁。
 
エミリーブロンテは30歳という短命の生涯を父親が勤める牧師館の中で生きた。
その人生の経験値の中で書かれた小説の世界観と、この挿絵の世界観。
澁澤の視点で捉えて行くとなかなか興味深い。
かといって、『嵐が丘』を読む気にはなれないけど。。。
 
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《空中ごまで遊ぶ少女》1930年 80×65㎝
胸を大きく引き開き、真直ぐに伸びた腕。
高く飛ばされた独楽を頂点にした二等辺三角形に深い呼吸がある。
これ、好き。
 
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《キャシーの化粧》1933年 165×150㎝
                   《鏡の中のアリス》1933年162.3×112㎝
 
度々出演している自画像はどれも男前で三次元だ。
 
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”夢見る少女”たちの連続。
傷のないピンと張った皮膚で、真直ぐに伸びる臑を立てる。
 成長する心体をもて余すしどけなさは、その肢体と心の含有物か、
可視的要素なのか。大人の目はそのリアルを隠す。存在しなかったごとくに。
 
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             《美しい日々》1944-1946年 148×200㎝
 
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 《夢見るテレーズ》1938年 150×130.2㎝
                            《おやつの時間》1940年 72.9×92.8㎝
 
美術雑誌『みづゑ』1968年澁澤龍彦による連載「人口楽園の渉猟者たち」の最終6回目に、バルテュスへのエッセーが書かれている。
これが、『幻想の彼方へ』/バルテュス、危険な伝統主義者
この連載の際に、各画家達に近作の写真を求めた様だが、バルテュスについては、ついに要望に足る物が送られては来なかったという。
芸術家の家庭で育ったバルテュスの3歳上の兄は、有名なフランスのサドの研究者だそうだ。対応の悪さも、その点の通ずるものでカバーされていたのだろうか、評論は美術専門家レベルに客観視と分析がなされている。
 

      

 

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金魚。
テーブルに首が乗ってるのかと思って、ちょっとびびった。
 
 
f:id:itifusa:20140429234739j:plain《地中海の猫》1949年127×185㎝
 個人的にはこれが一番不思議な画。
 
 
f:id:itifusa:20140429234752j:plain《目ざめ(1)》1955年 161×130.4㎝
 
今回の展覧会で、『街』(1933年)と『サンタンドレ商店通り』(1952-54年)
『山』(1936年)については、習作のデッサンのみで、本体は参考画像のみだったのがちょっと残念。
 
 
 
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グッズ販売で購入を悩みに悩んだ蜂蜜瓶。>荷物が多かったんですもの。。。
生前のバリュテュスが毎朝シャリシャリの蜂蜜をパンに塗って食べていたとのことで、節子夫人と相談を重ねて決めたグッズの一つだそう。
白のハチミツはカナダ産。
瓶には『ミツ』のワンシーンがプリントされており、完食後もリサイクル可能。
当然、『ミツ』↔︎蜜 の引っ掛けあり。
 
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東京都美術館2014年4月19日(土)~6月22日(日)

京都市美術館2014年7月5日(土)~9月7日(日)

 

※会場内の画像は主催者の許可を得て撮影したものです。

 

《引用》

澁澤龍彦

幻想の彼方へ』/バルテュス、危険な伝統主義者 (1968年12月)

幻想の画廊から』/夢見る少女ーバルテュスの場合 (1965年7月)

 

 

 

 

 

 

格好良かった方のこと。

丸の内は二重橋から東京駅をつっきること八重洲へ至り、日本橋高島屋へ。

浅田真央ちゃんではない。「美食の京都展」だ。

 

地下鉄に乗って突っ立ってもいられないので、歩いて来てしまった。

少しノイローゼ気味なんだろうか。。。

こういう重い病を持った京都フリークの関東人である。

 

日本橋高島屋の8階催事場への直通エレベーターは、てっきりライバルだらけと思いきや、筺の中の老若男女口々に

「美食の京都店ですって。同じフロアなのね。」

「帰りにみてみましょ」

みんな「真央ちゃん」でした。。。

 

素晴らしきかな京都展は、好きなお店と京都から新幹線ではなかなか買って帰りにくいものまで、京都のデパ地下より充実しており、楽しいったら見る間に両手に荷物。

 

前々から一度試してみたかった胡麻やさん、どの催事でもお客さんがたくさんでなかなかゆっくり見れなかったのだが、たまたま店員さんもお手隙の方が居たので、国産白ごまを購入。

お会計のはっぴゃくろくじゅう。。。。50円玉が手から滑り落ち、鈍くも転がり、隣のお客さんを越えて行く。

横で接客中のおねーさんの靴にぶつかった様子だったので回り込んで取りに行くと、

 あれ、無い。

お店の人も、おねーさんも、転がったのを見ていたので一斉に50円玉を探し始める。

が、、、影も形もない。

商品台の下に入ったと誰かが言ったので、台の下の段ボールやらを引っ張り出して、店員さんの大の男2人とおねーさんが、50円玉を探して床を這いつくばる。

「あったか?」

「こっちかもしれない」

「こっちもみてみる」と夕方の催事場で50円玉捕物帳が始まってしまった。

 

国産白ごま2袋の為に、この大の男を這いつくばらしておく訳にもいかないから、

「もういいです、たぶんそこには無いと思います。50円ではないかもしれないし」と、どうにか制止しようにも、どうにも聞き入れてもらえない。

「もういいですから、料金はきっちり別に払いますから」

半泣きで汗をかきながらお願いしても、おろおろしながら、まだ荷物をどかしたりしてる。。。

 

そこへ、通路を挟んだ斜向いの

半兵衛麸のお兄さんまでもが

「どうしました?お金おとさはった?こちらに来たかもしれないから探してみましょ」と参戦の兆しをみせる。みんないい人過ぎるってば(涙)。

 

嫌ぁ〜。お願いもうほっといて。ほんとに泣き出そうかと思った次の瞬間。

 

「ありましたよ!50円でしょ。ほら、こっちに転がってました」

 

と間髪を容れずに半兵衛麩のお兄さんが、明るく声を上げる。

 

 いや、さすがにそんな方まで転がりませんて。。。。

 

と思いつつも、藁をも縋るとはこの事。

助け舟だ。

胡麻屋の兄さん達も腑に落ちない様子ではあったが、とりあえずこの騒ぎを止められる。

 

頼む、君等もこの船に乗ってくれ。。。

 

その50円玉が本当に私の手から滑り落ちたものなのかは、神のみぞ知る事の顛末。

だがしかし、あの、半兵衛麩さんの冷蔵庫の下までコインが勢い良く転がる催事場の床材なら、高島屋は改修すべきだ。。。

 

あの半兵衛麩のお兄さん

江戸っ子目線で言えば、経験と判断力が物を言う火消しの素早さ。

いや、これが京都の町衆の「粋」なのだと、格の違いを見せられた気がする。

この意味、この顛末、こっちで商売をやってる人に、どれだけが理解できるだろう。

何百年もの間、お客さんに物を売る。商いを続けるって、こういう事なんだと思う。

 

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感謝の気持ちいっぱいで、半兵衛麩生麩を2本買って来た。

いつもお弁当に入っている一切れを大事に楽しんでいたが、

いつか、好きなだけ食べたいと思っていたので、嬉しさも100倍だ。

おにーさん、ありがとう!

 

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保冷剤もなんと、半兵衛麩仕様。

このこだわりに惚れ惚れする。

 

クヱマリをしたること

蹴鞠を少し、教えていただいた。

 

蹴鞠について想うのは、中臣鎌足中大兄皇子との出会い。

鎌足は弓の名手であった事も、発掘された遺骨の変形した左前腕骨から証明されている。その腕で入鹿を射た。

愚管抄で「もののけ」とまで言われた冷泉帝は、親王の頃より蹴鞠に没頭しており、殿舎の梁に鞠を載せようと、躍起になって部屋の中で蹴り上げ続けていた姿が、人々の口さがない噂の一因ともなっている。

鎌倉幕府滅亡の一翼にも蹴鞠は聞こえる。

たった一度上洛した際に、頼朝の長男坊、頼家は蹴鞠に魅入られる。執政から蔑ろにされ、ヘソを曲げた頼家に言い寄った、稀代のおべっか使い、平知康が彼の蹴鞠熱に火をつける。

どれも、その後に起こる時代の移り変わりを大きく握る程に、彼らは鞠を蹴上げ続けていたのはなぜなのか、一度自分で蹴上げてみたかったのだ。

 

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鞠の種類は2つ。

上が九寸の上方、宮中で利用されていたサイズ。下の一回り大きい方が一尺の関東版。武士タイプとでも言おうか。

3歳の雌鹿の尻の皮が使われるそう。

必ず両手で扱い、蹴り上げるのは右足のみ。中央の蛇腹部分を親指と4本の指とで丁寧に胸通りの高さで引き寄せる。全ての動作に、品格と崇敬が込められている。

 

充分に鞣された皮の鞠は、打つ内に凹んでくることがある。紙風船遊びと同様に、手で軽くぽんぽんとたたいていくと、自然とまた空気を含んで丸みを取り戻す。その感覚が素敵だった。

澁澤龍彦の『空飛ぶ大納言』は蹴鞠の上手、藤原成通卿を題材にしている。成通卿は和歌にも通じており西行とも親しかったとも。

大納言が一千日の願掛けを満了した日の晩に、鞠の精霊が現れる件がある。

鞠の内部には、玉匣を開けた時の様に、そこに閉じ込められた夢が少しずつ、芳香の様に放射される。常に中身をとりかえて、新鮮な夢を満たす必要があろう。と精霊が告げる。精霊は蹴鞠が始まれば鞠の側に在り、しかし必ず四方の「かかり」は生木でないと精気を失ってしまうというのだ。

 

古の人の発想の美しさに少し触れられた気がした。

 

色とりどりの装束を着た貴人が両の袖を広げ、舞う様に鞠を追う様子。何とも雅やかなことだろう。そして、美しき妄想とともに、理由無く只、無心に鞠を打ち続ける自分にも気付いた。

 

この週末、金曜日は森戸神社での奉納神事。翌土曜日は午前中にお弓の稽古、午後に礼法、歩射、そして蹴鞠と、一日道場に入り浸った。 

雌鹿の皮の真ん中を凹ませる蛇腹の部分。芯は馬の皮だそうだ。『馬鹿』とは、勉強ができない等の事ではなく、他のものが眼に入らない程、一つの事に没頭している様を指して言ったのが本来だそう。

 

 

 

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POLKA DOT WONDERLAND COMME DES GARÇONS

ARRIVES 22ND NOVEMBER

http://ginza.doverstreetmarket.com/dsmpaper/new_items.html

ギャルソンといえば、DC世代の私にとっては川久保玲氏なんだが、引退目前ハートに目玉が付いたキャラモチーフがヒットした頃から、私の知っているギャルソンが行方不明になっていたなー。 

今回のテニエル画のアリスも川久保時代だったら、もっとハートに食い込んだんじゃないかな、とか。個人的には水玉模様が苦手なので、ミニーちゃん柄ワンピースのアリスが、本気なのかアイロニーなのかと片眉上げて見てしまう。

 

テニエルのアリスとディズニーのアリスは、別物なのだよ。

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伯父がタカラの重役だった。
あのリカちゃんのタカラ。
なので、家には常に未開封のリカちゃんがあったし、リカちゃん(本体)じゃなくて、リカちゃんのドレスが欲しいといっても、ゴージャスなドレスを纏ったリカちゃんごと届けられる。
何のジョーダンだったんだろう。
 
それだけでなく、私は親戚中で最初の女子だったせいもあるのか、女児用玩具には事欠かず、お陰で物欲の全くない、ちょっと心配な位大らかな子供だった。
 
そんなプロセスで、子供らしいおねだりの仕方をしらずにきた5歳児。
人生で初の独占欲を伴う物欲にスイッチを入れたのが、
このテニエルのアリスだった。
 
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美しい装幀と外箱。
物語を象徴する扉絵。
ページ番号を記すアイコンが、章のテーマに添わせてある。
豊富な挿絵のと、要所に差し込まれているカラー紙の彩色画は、
そこまで読み進めたご褒美だ。
 
その本は6つ上の兄の本だった。
自分の絵本とは違う、兄たちの本棚に並ぶ重厚で大人びた本の背が羨ましく、
彼等の留守中に盗み見るのが、日々の楽しみと特権の5歳児。
それらの中でも一際この幻想小説は、精々目一杯に開花させた乙女心へ、ぐりっと刺さった。
兄達のものに勝手に手を出した痕跡を残すわけにはゆかない秘事。その禁を犯してでも、この本持ち出し自分の机と椅子の空間で、まるで瞑想に入るが如く。
  
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この本との特別な時間を追う毎に、とうとう芽生える少女の物欲、独占欲。
「我が物にしたい」と願った。いや、思った。
 
早く事を運ばねばならない。
この秘事が彼等にばれたら、本は速攻で取り上げられる危険性も察知している。
なにしろ、猫っ可愛がりの頃を過ぎ、口達者で、ませて、生意気に構築された5歳の妹の地位は『斉藤こずえ』の異名を授り、二人の兄の間に新しい結束力を持たせるに至っていたからだ。
 
速やかに、スムーズに、時と空気を十分に読む必要がある。
最悪の事態を考えて、最低限の退路を作っておく必要がある。
もちろん、退路は手ぶらであってはならない。失敗は許されないのだ。
 
結果、5歳児の取った手段は恐ろしいかな、要所に差し込まれているカラー図版だけを持ち去る準備をしておく事だった。
幼児のキャパで考えるリスクヘッジの斬新さには今でも恐れ入る。
 
彼等がこの本にそれほどの執着がない事もわかっている。しかし、私が欲しいと言えば、絶対に手の届かない棚に移動されてしまうに違いない。
それ故終着した答えは、
 
『好きな図版だけ抜き去っても当分はバレない。』
 

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日々、覚え立てのカッターナイフを片手に自室で着々と準備を進める5歳児の異様な姿をウチのマミー、知ってたんだろうか。。。

 

ゲリラ準備も一段落得るを目前に、この5歳児、流行病に倒れます。

お多福とか水疱瘡とかのどれか。。。

この時、早々に人生で最大の女子力を発揮してしまう。

病床を見舞ってくれた兄の手を取って、切れ切れの言葉であの本をねだったのです。

日頃の因縁をついつい忘れてしまう男のスキを5歳児は即座に読み取り、「今だ。」と思ったのです。

いともあっさり、次の瞬間にはあの本が枕元に置かれていました。

おにーちゃま、ごめん。

箱の中でばらばらになっている本を目の前で開くわけにもいかず。

静かに目を閉じました。

 
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そうして、今も私の手元に残るこの本。
テニエルの”不思議の国”は、ひらがなをやっと追えるようになった幼児の心さえ、鷲づかみにする。
カリカリした線で微細にまで描きこまれている世界の奥行き。
キャラクターの表情も、難解な世界も、さも平静な空間を装い、当たり前のようにその中を生きている。
この世界に引き込まれて、これが現実空間とひと続きであることを願って止まず、夢を見続ける。本の扉が閉じられるまで。
 
 こどもの世界文学4
訳  高杉一郎 
挿画 ジョン=テニエル
昭和47年8月 講談社
 
 今ではほとんど見られなくなった、作り込まれた装幀の児童書。
この頃の本には、著者の思いや編集に携わった人たちの思い入れも、ちょっとした処に美意識が感じられ、その中にある「特別な世界」を包む
宝箱の役を、十分に果たしていた。
それが、当時の児童書は割と当たり前だった様にも思う。

 

小学校に上がったクリスマスに買ってもらった『鏡の国のアリス』。
高学年用だったから漢字も全く読めなかったが、
大人の本を手にした自分にうっとりしていた。
この福音館書店のシリーズも、どれも挿絵がとても良かった。
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福音館古典童話シリーズ
訳  生野幸吉
挿画 ジョン=テニエル
1972年4月 福音館書店