どんぶり金魚の楽しみ方 著:岡本信明
『睡眠-Sleep-』勅使川原三郎@東京芸術劇場
西洋で中世に発祥したバレエの場合は上へ上へと、より高く向かう物理的な能力を求めるのではないか。
勅使川原氏の舞踊はそのどちらにも属さず、そこにある空間そのものとして存在する。
光が絶対的な境界を作り出し、そこに切り取られた空気は、
彼の存在がその空間に在る以上、ただ控えて待つだけの物質だ。
失敗した。東京公演、もう一回観ておくべきだった。
構成・振付・美術・照明:勅使川原三郎
出演:オーレリー・デュポン、佐東利穂子、勅使川原三郎 他
東京公演:東京芸術劇場 8月14日(木)〜8月17日(日)
8月21日(水)19:00 愛知県芸術劇場大ホール
8月23日(土)18:00 兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホール
SIMONDOLL 四谷シモン展
国立近代美術館の収蔵品と、以前アニメのおかげで球体関節人形がにわかブームとなり、東京都現代美術館というやけにアクセスの悪い美術館で、特別展が開かれた際だ。
ひっそりと亡き天野可淡氏の遺作が展示されているのを知り、最後になるやもと訪れる事になった展覧会だった。若手作家達の自己満足に、呼吸器官を捻り潰されそうになりながら、嫌悪感と虫の息でシモン氏と吉田良氏の人形に辿り着いたんだった。
展示ステージに1個体が何の舞台装飾もなく設置される。
続く室は、機械仕掛の人形。露になった内蔵はゼンマイ仕掛けで、不躾な視線にさらされている。
浄瑠璃人形の様に角度で表情を変えるし、意志を持つ瞳は、まじまじと覗き込むこちらへ、どれだけ侮蔑した視線を返してくることか。
なのに、幼体故の色気を発するはずの肢体は、限りなくアンバランスに無機質。
それは、「人がた」、人形であることを、戒めの様に見せつけている、一個体なのを認めさせるジレンマ。
美しい括れの腰を金属のスタンドで支えられて立つ、人形なのだ。
求めても放り出される不安と快感。それを箱に詰められた人形達が放つ。
それがシモンドールの世界観なのかもしれない。
その焦燥の中で次第に求めるのは、腐敗して行く屍姿の娼婦が放つリアルと、神の救済の世界。現実の美は腐敗であり、神の救いは人の理想が作り出す、無機質な偶像。
彼らは完璧な理想の姿を持ち、ガラスケースの中から冷たく、時に生暖かくこちらを見てくれている。
アーティストの自己愛とは、美を作り出す事ができない私には一番の難題だ。
無機質と不完全の美に、永続的な人形の魂が存在する。それだけは、私にも見える。
『人形愛序説』(1974年10月第三文明社 初版)『変身する四谷シモン』(1972年2月 アンアン初稿)
『未来と過去のイヴ』(四谷シモン人形展1973年10月27日〜11月17日 銀座青木画廊)パンフレット初稿
『歌うシモン』(『機会仕掛の神』四谷シモン 跋文 1978年10月 イザラ書房)
『メカニズムと少年
あるいは男根的自己愛』(1980年12月3日〜21日 四谷シモン展パンフレット初稿)※自筆原稿の展示有り。用紙の末尾に著者名が印刷された専用の原稿用紙。
『シモンの人形』(『少女コレクション』序説 1985年3月中央公論社)
『ピグマリオニスム――人形愛の形而上学をめぐって』(四谷シモン氏との対談)
バルテュス展 東京都美術館にておぼえがき
格好良かった方のこと。
丸の内は二重橋から東京駅をつっきること八重洲へ至り、日本橋高島屋へ。
地下鉄に乗って突っ立ってもいられないので、歩いて来てしまった。
少しノイローゼ気味なんだろうか。。。
こういう重い病を持った京都フリークの関東人である。
日本橋高島屋の8階催事場への直通エレベーターは、てっきりライバルだらけと思いきや、筺の中の老若男女口々に
「美食の京都店ですって。同じフロアなのね。」
「帰りにみてみましょ」
みんな「真央ちゃん」でした。。。
素晴らしきかな京都展は、好きなお店と京都から新幹線ではなかなか買って帰りにくいものまで、京都のデパ地下より充実しており、楽しいったら見る間に両手に荷物。
前々から一度試してみたかった胡麻やさん、どの催事でもお客さんがたくさんでなかなかゆっくり見れなかったのだが、たまたま店員さんもお手隙の方が居たので、国産白ごまを購入。
お会計のはっぴゃくろくじゅう。。。。50円玉が手から滑り落ち、鈍くも転がり、隣のお客さんを越えて行く。
横で接客中のおねーさんの靴にぶつかった様子だったので回り込んで取りに行くと、
あれ、無い。
お店の人も、おねーさんも、転がったのを見ていたので一斉に50円玉を探し始める。
が、、、影も形もない。
商品台の下に入ったと誰かが言ったので、台の下の段ボールやらを引っ張り出して、店員さんの大の男2人とおねーさんが、50円玉を探して床を這いつくばる。
「あったか?」
「こっちかもしれない」
「こっちもみてみる」と夕方の催事場で50円玉捕物帳が始まってしまった。
国産白ごま2袋の為に、この大の男を這いつくばらしておく訳にもいかないから、
「もういいです、たぶんそこには無いと思います。50円ではないかもしれないし」と、どうにか制止しようにも、どうにも聞き入れてもらえない。
「もういいですから、料金はきっちり別に払いますから」と
半泣きで汗をかきながらお願いしても、おろおろしながら、まだ荷物をどかしたりしてる。。。
そこへ、通路を挟んだ斜向いの
半兵衛麸のお兄さんまでもが
「どうしました?お金おとさはった?こちらに来たかもしれないから探してみましょ」と参戦の兆しをみせる。みんないい人過ぎるってば(涙)。
嫌ぁ〜。お願いもうほっといて。ほんとに泣き出そうかと思った次の瞬間。
「ありましたよ!50円でしょ。ほら、こっちに転がってました」
と間髪を容れずに半兵衛麩のお兄さんが、明るく声を上げる。
いや、さすがにそんな方まで転がりませんて。。。。
と思いつつも、藁をも縋るとはこの事。
助け舟だ。
胡麻屋の兄さん達も腑に落ちない様子ではあったが、とりあえずこの騒ぎを止められる。
頼む、君等もこの船に乗ってくれ。。。
その50円玉が本当に私の手から滑り落ちたものなのかは、神のみぞ知る事の顛末。
だがしかし、あの、半兵衛麩さんの冷蔵庫の下までコインが勢い良く転がる催事場の床材なら、高島屋は改修すべきだ。。。
江戸っ子目線で言えば、経験と判断力が物を言う火消しの素早さ。
いや、これが京都の町衆の「粋」なのだと、格の違いを見せられた気がする。
この意味、この顛末、こっちで商売をやってる人に、どれだけが理解できるだろう。
何百年もの間、お客さんに物を売る。商いを続けるって、こういう事なんだと思う。
感謝の気持ちいっぱいで、半兵衛麩で生麩を2本買って来た。
いつもお弁当に入っている一切れを大事に楽しんでいたが、
いつか、好きなだけ食べたいと思っていたので、嬉しさも100倍だ。
おにーさん、ありがとう!
保冷剤もなんと、半兵衛麩仕様。
このこだわりに惚れ惚れする。
クヱマリをしたること
蹴鞠を少し、教えていただいた。
鎌足は弓の名手であった事も、発掘された遺骨の変形した左前腕骨から証明されている。その腕で入鹿を射た。
愚管抄で「もののけ」とまで言われた冷泉帝は、親王の頃より蹴鞠に没頭しており、殿舎の梁に鞠を載せようと、躍起になって部屋の中で蹴り上げ続けていた姿が、人々の口さがない噂の一因ともなっている。
鎌倉幕府滅亡の一翼にも蹴鞠は聞こえる。
たった一度上洛した際に、頼朝の長男坊、頼家は蹴鞠に魅入られる。執政から蔑ろにされ、ヘソを曲げた頼家に言い寄った、稀代のおべっか使い、平知康が彼の蹴鞠熱に火をつける。
どれも、その後に起こる時代の移り変わりを大きく握る程に、彼らは鞠を蹴上げ続けていたのはなぜなのか、一度自分で蹴上げてみたかったのだ。
鞠の種類は2つ。
上が九寸の上方、宮中で利用されていたサイズ。下の一回り大きい方が一尺の関東版。武士タイプとでも言おうか。
3歳の雌鹿の尻の皮が使われるそう。
必ず両手で扱い、蹴り上げるのは右足のみ。中央の蛇腹部分を親指と4本の指とで丁寧に胸通りの高さで引き寄せる。全ての動作に、品格と崇敬が込められている。
充分に鞣された皮の鞠は、打つ内に凹んでくることがある。紙風船遊びと同様に、手で軽くぽんぽんとたたいていくと、自然とまた空気を含んで丸みを取り戻す。その感覚が素敵だった。
澁澤龍彦の『空飛ぶ大納言』は蹴鞠の上手、藤原成通卿を題材にしている。成通卿は和歌にも通じており西行とも親しかったとも。
大納言が一千日の願掛けを満了した日の晩に、鞠の精霊が現れる件がある。
鞠の内部には、玉匣を開けた時の様に、そこに閉じ込められた夢が少しずつ、芳香の様に放射される。常に中身をとりかえて、新鮮な夢を満たす必要があろう。と精霊が告げる。精霊は蹴鞠が始まれば鞠の側に在り、しかし必ず四方の「かかり」は生木でないと精気を失ってしまうというのだ。
古の人の発想の美しさに少し触れられた気がした。
色とりどりの装束を着た貴人が両の袖を広げ、舞う様に鞠を追う様子。何とも雅やかなことだろう。そして、美しき妄想とともに、理由無く只、無心に鞠を打ち続ける自分にも気付いた。
この週末、金曜日は森戸神社での奉納神事。翌土曜日は午前中にお弓の稽古、午後に礼法、歩射、そして蹴鞠と、一日道場に入り浸った。
雌鹿の皮の真ん中を凹ませる蛇腹の部分。芯は馬の皮だそうだ。『馬鹿』とは、勉強ができない等の事ではなく、他のものが眼に入らない程、一つの事に没頭している様を指して言ったのが本来だそう。
Back to "Alice in Wonderland"
POLKA DOT WONDERLAND COMME DES GARÇONS
ARRIVES 22ND NOVEMBER
http://ginza.doverstreetmarket.com/dsmpaper/new_items.html
ギャルソンといえば、DC世代の私にとっては川久保玲氏なんだが、引退目前ハートに目玉が付いたキャラモチーフがヒットした頃から、私の知っているギャルソンが行方不明になっていたなー。
今回のテニエル画のアリスも川久保時代だったら、もっとハートに食い込んだんじゃないかな、とか。個人的には水玉模様が苦手なので、ミニーちゃん柄ワンピースのアリスが、本気なのかアイロニーなのかと片眉上げて見てしまう。
テニエルのアリスとディズニーのアリスは、別物なのだよ。
日々、覚え立てのカッターナイフを片手に自室で着々と準備を進める5歳児の異様な姿をウチのマミー、知ってたんだろうか。。。
ゲリラ準備も一段落得るを目前に、この5歳児、流行病に倒れます。
お多福とか水疱瘡とかのどれか。。。
この時、早々に人生で最大の女子力を発揮してしまう。
病床を見舞ってくれた兄の手を取って、切れ切れの言葉であの本をねだったのです。
日頃の因縁をついつい忘れてしまう男のスキを5歳児は即座に読み取り、「今だ。」と思ったのです。
いともあっさり、次の瞬間にはあの本が枕元に置かれていました。
おにーちゃま、ごめん。
箱の中でばらばらになっている本を目の前で開くわけにもいかず。
静かに目を閉じました。