びぶりおてか

私家版 Caffè Biblioteca

『村上隆の五百羅漢図展』へ 重い腰をあげ

六本木ヒルズ森美術館は私立美術館の鏡だな。
会期中無休の上に、開館時間が火曜日以外は10:00-22:00。
18時にオフィス出たって、それから3時間は入り浸れる。ありがたい。
残された心配事は、森ビルの53階へ駆け上がる高速エレベーターで、
うまいタイミングで耳抜きが出来るか。という事だけだ。

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五百羅漢図4部作は制作中のアトリエがメディアに公開される事もあって、
超大型作品となっていることは既知であった。
そもそも、その名の通り500人の被写体をくまなく描き出すのがその図像なのだから、
形式が変われど、それなりの大作になり得る主題ではある。

この度日本初公開となった、村上隆五百羅漢図は高さ3メートルのパネルがものすごい数連ねられ、
各面25メートルの、全長100メートル
絵画として、その寸法を言われてもまったくピンとこない数字なのだ。

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 展覧会の展示はその4部作が、2室に分かれて展示されている部屋にたどり着く前に、あのDOB君もゲロタンも居り、そこまでの間はアトラクション気分。

図録がまだ発売されておらず、出品リスト頼りに回想するので、作品名が一致していない可能性もあることをあらかじめ申し上げます。。。。
この展覧会、キャプションやタイトルを確認するという作業が、観覧中まったくわたしの中から消し去られており、今更リストを見て作品と一致できるものわずか、あとはどれのことをいっているのやら、、、という始末。
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宇宙の深層部の森に蠢く生命の図
消失点の無い世界
直指人心 見性成佛
∞:727
ストゥーパ
神農の図
王座に鎮座する唐獅子
四天王
天空の城
如来降臨
生命の希望
渓流に咲く梅
ガネーシャ
自然の摂理
シシ神
2015 年
アクリル、金箔、プラチナ箔、カンバス、アルミニウム・フレームにマウント
240 × 3,045 cm
 
全部作品名なのか、登場するオブジェの一覧が付随しているのか不明。
たぶん作品名なのかもしれない。。。。
この作品自体もあまりに長すぎて奥でL字になって展示されてました。
その対面に円相シリーズがあった(はず)だが、、、、写真がなかった。
f:id:itifusa:20151202130142j:image若冲など江戸期の絵師へのオマージュが見られる。
が、、、若冲の鳳凰よりもはるかにお下品(笑
 
 
f:id:itifusa:20151202130202j:image慧可断臂
心、張り裂けんばかりに師を慕い、故に我が腕を師に献上致します
2015 年 アクリル、プラチナ箔、カンバス、アルミニウム・フレームにマウント
100 ×100 cm
こちらはキャプションしか写真を撮っていなかった。
作品名にぐっときたもので。この人、左利きなのかな。
 
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 五百羅漢図 [ 白虎 ] 2012 年
アクリル、カンバス、板にマウント 302 × 2,500 cm 個人蔵
 
五百羅漢図は白虎、青龍、玄武、朱雀の四部作。ええ、神仏習合。集合?
どこかに白澤らしきも居たので、どちらかというと集合です。
 
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人が煩悩を滅してたどり着く境地とは、こんな世界になっているのです。
人としての幸せを見たような気がします。
  
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長沢芦雪 方寸五百羅漢図 (江戸時代・寛政 10 年(1798 年 紙本墨画淡彩)
3.1 × 3.1 cm 個人蔵
 
蘆雪の五百羅漢図は、超ミニサイズ。
 
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なんのドサクサか写真が撮れたので、激写。嬉しい♪
これは初公開のMIHO Museum 以来、好きな逸品。
視力の衰えを思い知らされる。
これは白虎で画中画になっておりました。
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五百羅漢も小さくかけば、コンパクトに収まるのです。
 
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五百羅漢図 [ 青竜 ] 2012 年
アクリル、カンバス、板にマウント 302 × 2,500 cm 個人蔵
 これは蕭白の雲龍図からね。ボストン美術館のコレクションだったか。。。
まさに、現代の表現に変えたらこの通りなのかもしれない。
 
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若冲のクジラと白像図屏風のコラボという、好き勝手贅沢三昧のこの面が、
個人的にも好きなモチーフや表現があり、お気に入りとなった。
 
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これも青龍より。聖体が吐く”氣”から、聖体が生じる。からのインスピレーションだろうか。渦巻きうねる”氣”に粘りがあって重そうなのが、この画風の絶対バランスの一つ。
 
 
 
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潔い落下にも粘り。応挙の滝壺みたいだ。
 
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欲望の炎―金 2013 年
金箔、カーボンファイバー 498.4 × 188.6 × 183.1 cm
開き直ったかの成金趣味。村上画壇の豊富な資金源が象徴されております。
海外にはこの大作現代アートを買いあげる人がいるのだな。もはやここまで観てくると、自分に一切の抵抗がなくなっている村上マジック。
 
 
森美でいつも開催される展覧会はザンシンなものが多く、なかなか出向く機会がない。
でも、この五百羅漢図は制作中からの自分とのお約束でもあったので、待ちに待ったというべきか。見てないものを好みでは無いといってはいけないと自戒の念を込め日本での公開を待っていた。
 絵画の鑑賞はもうずっと、100年越えスパンでの古いものを相手に、絵師がなぜこの絵を、この構図で、この時に、誰のために描いたのか、という問いかけを繰り返しながら筆を追っていく、という本の虫の如しスタンスが通常だった。なのでそれら全てが明らかに公開されている現代のポップカルチャーというものをどう受け入れられるのか、大げさながらも相応の覚悟と抵抗がせめぎ合いを続け、まったく腹が決まらない。今回幸いにも増上寺で同時公開となった、狩野一信の五百羅漢を観覧した勢いに助けられ、重い腰をあげることができた。

村上氏ご本人については、これまでに何度か日本画関連の講演会などでお話を聞くことがあった。(でも、実際に展覧会として作品を見たのは本当にこれが初めて)
日本中世の美術史から途絶えることなく明治期まで続いた狩野派画壇のビジネスモデルに強く関心を示されており、日本の画家が、画壇としてそれを引き継げていないことが、世界へ立ち向かえない一つの弱点であることも指摘されていたと思う。
この五百羅漢図4部作の大型作品の作製をわずか1年間で仕上げる為に、動員された弟子の数は延べ数百人だという。棟梁指揮の下、素材収集部隊、デッサン部隊、24時間作業のシフト化と、”延べ”という要員数がその組織化された分業制を想像させる。それは、展覧会でもその作業の過程を映像化し、また、収集された資料や下絵、指示書を、「残す」前提で作製た上で、公開していることにも明らかに思われる。
つまり棟梁が目指した日本画壇組織の成功例をここに知らしめたのだと思う。

展覧会はカメラを持ち込み、すべての作品が撮影可能、公開も自由となっている。
棟梁の大きな野望は果たされた上で、後はその画を前にして、観たものが何を感じるか、指をさして笑ったり、眉を寄せたりと、自由な発想を得ることが絵師にとっての最高の望みなのではないかと、なんともフレッシュな気分で鑑賞を終えた。
現代画というのは(日本画というにはまだ抵抗もあるが)、作品のプロセスが公となっているものに対して、なんの理解を求められているのかなどの勘ぐりは、彼らはまったく望んでいないのだ。
 
この展覧会会期は、通常の個人の展覧会とは違い、かなりの長期間展示となる。作品群は超巨大なものばかりで、今後再度この規模での日本国内での展覧会は、物理的に不可能と言われているそうだ。
ぜひ、なるべく多くの人に、面白半分、話題半分でも観に行って欲しい。なんてったって、平日の夜22時まで開館だ。しかも平日は空いている。
 
おまけ。
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辻惟雄先生である。。。
作品名はわからない。。。。 

 観覧当日、時間的にも館内は人が少なく、朝日新聞社の取材が来ていた。
連れて行った妹が撮影協力(笑 掲載記事がいつまで見れるかわからないけど。
あまり普段アート鑑賞に馴染みのない若い女性などへのよいプロモーションになるといいな。と思う。
撮影は鬼室 黎氏 とても感じのよい方でした。

増上寺ニテ狩野一信五百羅漢図二再会ス

 

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増上寺宝物展示室で開催中の『狩野一信の五百羅漢図展』に行ってまいりました。
いつかまたじっくり見たいと願い続けて、、、4年か。初公開されたのが2011年江戸東京博物館、あれは全100幅一挙公開という殺人的展覧会だった。

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狩野一信の増上寺蔵 五百羅漢図 全100幅は、2幅対で外題があり、羅漢の日常から修行、救済、供養の様子を描いている。2幅のうちに各10人の羅漢が描かれ、それまでにあった羅漢の図像、構図を数多く学んだ上で、オリジナルの構図をストーリー立てているのだとのこと。各幅に描き出されている事物は馴染みのあるテーマの中にも、次々びっくりするような情景が描き込まれていて、飽きることなくその世界観の中に遊べる。

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すべての画像は主催者の許可をえて撮影をしております。


釈迦入滅の年、最も優れた遺弟500人の阿羅漢が集められ、釈迦が生存中に説かれた「法と律」を3ヶ月の内に韻文や詩にしてまとめた。これを第一結集といい、現在に伝わる経典の原点となったものだ。
阿羅漢は一切の煩悩を断じ、悟りを得た最高の聖者として、人々を感化善導する徳をもっている。その五百の阿羅漢を五百羅漢として信仰する。十六羅漢など唐代では古代密教の時代から信仰があり、10世紀には日本にも図像や造形物が多数招来されている。供養に応じてくれる高徳の聖人として庶民が信仰、供養するようになるのは、中世の禅宗が持ち込んでからになるのだろうか>>>勉強不足。。。。調べよう。

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現在前期の展示は(2015年10月7日(水)~12月27日(日))は 第21幅~第40幅
20幅の外題は六道。 救済が描かれている。仏教は深刻な罪を犯しても彼らが救ってくれるのだ。。。よかった。
第21-24幅 地獄  第25-28幅 鬼趣
第29-30幅 畜生  第31-32幅 修羅
第33-36幅 人   第37-40幅 天

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救済を待つ間にも、獄卒に追われ、鳥に喰われたり、氷の中でかなり寒い思いをしなくてはならない。火攻め、氷攻めは西洋の地獄観にも共通。でも、仏教は羅漢さんがきっと救ってくれる。

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お盆におばあちゃんにお寺さんへ連れて行かれ見る六道絵とは、あまりにも様相が異なる。子供を連れて行っても怖がるどころか引きつけを起こすんではないだろうか。あぶない。

 

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三面六臂(この絵では四臂)の阿修羅がここに

f:id:itifusa:20151122005045j:plain裳裾を翻す不穏の風は冷めた怒りを感じる

ただし、救ってくれない六道もある。
一信が思う救済、仏へ祈るという意味、その信仰の意味。現代の私たちが心して観なくてはいけないところだ。

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修羅の終わりなき紛争は天の思惑ではない。争いを起こすものたちが天慮をおもんばかることができずに飽くことなく殺戮を繰り返す。それは聖人の救済による終息など望むべくもなく、自ずからがその愚かさに気づき、正しい道を見つけなければならない。

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一信五百羅漢図の立役者(絵の中にいるわけではない)広瀬麻美氏のレクチャーと、トークショー。長年愛情をもってこの100幅に携わってこられた解説は貴重なものだった。

f:id:itifusa:20151122004735j:plain聖人の神変に驚き狂喜する猿とか

この方、本当に素敵な女性でした。美術史の方って本当に穏やかでいて、その情熱は愛がたっぷりでいいなー。

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あったらしい美術館や展示設備って、ほんと環境が良くなりましたよねー。
最近、入館してから真っ先にそれに感動します。
隔てたガラスに映り込みがないととても集中して観覧できます。それが今回のような作品だと痛感。疲れ知らず。

f:id:itifusa:20151122004838j:plain鬼子母神さんとみっしり子供

こちらの増上寺本殿地下に本年4月に開設された宝物展示室もご多分にもれず完璧な作り。それどころか、なんだか妙に、いや異常に見やすい。
「なんだこの接近感は」と思ったら、展示されたお軸の高さが視線にぴったりなのです。この大幅に余分な高さがなく、一信の五百羅漢図にぴったりあわせて作られているのでした。それは後のレクチャーでその通り判明。この細密画が間近で鑑賞できるようにと、壁面は可動式になっており、よりガラスに迫り出すことができる。それによって起こる照明のムラも天井に設置されたミラーの反射で照度を調整しているのだそう。この五百羅漢図への厚遇に、こちらも授かれるとはありがたい。

すべての画像は主催者の許可をえて撮影をしております。

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着座でのトークショーにかの山下先生が飛び入り。これまた貴重な機会となりました。
一信の五百羅漢に出会ったのは、別冊太陽で山下先生監修の『狩野派決定版』。感慨深いよね。


増上寺宝物展示室 『狩野一信の五百羅漢図展』
http://www.zojoji.or.jp/takara/event/
前期:2015年10月7日(水)~12月27日(日)| 第21幅~第40幅展示
後期:2016年1月1日(金)~3月13日(日)| 第41幅~第60幅展示

 

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トークショーの皆さん総プッシュの村上隆五百羅漢図展」@森美術館

こちらに次回会期で展示となる第49-50幅(だったかな)が現在みられるそう。

こちら。。やはり頑張れないようなきがする。。けど。。
この4部策が一堂に展会されることはもう二度と叶わない(色々物理的に不可能らしい)のだそうです。
絵師集団村上工房のターニングポイント。辻先生の講演などでよく耳にしていたので、公開の暁には実物をこの目で、と思っていたが、未だ少し腰が重い。制作過程の資料なども具に残されており、展示されているそう。日本美術界の歴史に名を残すという気概を感じる。この展覧会で写真撮影OKとのこと。棟梁の尊重すべき決断の他は、解釈自由ということか。でも、見に行くと思う。。。。来週。とか、再来週には。。。。

 

トークショーで紹介のあった、国内の五百羅漢像のうち、3箇所は私もお気に入り。
ブログ記事は以前使ったものから移動させなかったので川越のものしか残っていないけ(大したことは書いていない)どアルバムは復活させました。

▼京都 宇治 石峰寺
https://picasaweb.google.com/112032710675399999724/SekihojiUji2011326020?authuser=0&feat=directlink
まだ若冲ブームもこちらまでは達していなかった頃、撮影が許されていた当時のものです。

▼千葉県館山市の鋸山
https://picasaweb.google.com/112032710675399999724/NokogiriYamaTateyamaChiba?authuser=0&feat=directlink
久里浜の金山フェリーから館山の港へ入っていくと、独特な岩肌がそびえていて、登らずにはいられない眺めです。

▼川越のたび

http://itifusa.hatenablog.com/entry/2007/03/08/000000

 


参考文献:
山下裕二監修 別冊太陽日本のこころ131号『狩野派決定版』2004年 
東京国立博物館『幕末の怪しき仏画ー狩野一信の五百羅漢図』2006年
図録『法然上人八百年御忌奉賛 五百羅漢 幕末の絵師狩野一信 増上寺秘蔵の仏画』2011年
水野弘元『仏教要語の基礎知識』春秋社 2007年新改定2版
中村元『ブッダのことばスッタニパータ』岩波書店 1991年

 

新訳『神曲 地獄篇』 訳:原基晶/講談社学術文庫版 読了ス。

神曲』地獄篇を読了。

やっとだ。やっと最初の一冊、全100歌中の34歌を読み終えた。ほぼ通常の三倍の時間とエネルギーを費やしたと思う。

 

この新訳版を手に取ったのは昨年末。発刊をどういったきっかけで知ったかも覚えていないが、手に取ってみるために丸の内の大型書店に向かったんだった。

 

この新訳版『神曲』の冒頭には、「地獄篇」を読む前に として、著者(この場合訳者)の前書きが設けられている。大変失礼ながら、その最初の数行を読んで、「読める。おもしろい。今度こそいける気がする」。という根拠不明の確信を自覚した。

それが以下、出典とともに紹介したい。

  『神曲』の主人公は作者ダンテ・アリギエリその人である。そして『神曲』は、西暦一三〇〇年の復活祭に、そのダンテが、地獄、煉獄、天国の彼岸の世界を旅して神に出会うまでを描いている。私達読者が作品に深く入り込むためには、一三〇〇年までの彼の実人生と、一三〇〇年に彼を取り巻いていた状況を知っておいたほうがよい。そこで作品に入る前に、ここでそれらについて伝えておきたい。

               『神曲 地獄篇』p3. 講談社学術文庫 2014

                     ダンテ・アリギエリ/原基晶 訳

美術史も含め、古典の理解には一番重要な検証だが、古典の翻訳本にそこまで親切に導入を助けてもらえるとは、その時点で涙が出る思いで胸に抱いた。

 『神曲』地獄篇/序歌含む全三四歌、煉獄篇、天国篇各三三歌、計一〇〇歌が三行一連の詩型を成し、全14,233行。まずは数字を並べて心を落ち着かせる。

それでも気弱に地獄篇だけ購入し、青ブク本店で開催されたトーク&レクチャーに参加。

                               2014年12月13(土)

               原基晶×橋本麻里トーク&レクチャー / 青山ブックセンター

        ダンテ『神曲』の衝撃 〜14世紀の叙事詩は西欧文化に何をもたらしたのか〜

 この時のトークはいろいろ面白い話があったが、書いていいのかわからないのでやめておく。ただ、後述の1300年代写本のレプリカなど、貴重なものも見せていただいた。もともと頭でっかちな気質で、こういうレクチャーを事前に受けてしまうと、中世史の概観だけでもさらっておかないと落ち着かず、とりあえずは「就寝前に一歌ずつ朗読」という娯楽に徹し、とにかく、私の中では皇帝ネロの自害で終了し、ルネサンスまで虫食いでボロボロになったローマ帝国史を更にくだり始めたのが今年の幕開けだった。 

その間、翻訳者である原基晶氏の公開講座月から1/月のペースで開講し、参加。前後計千年の歴史が混沌を極めつつある脳の整理がここで行われていく。

翻訳者の原基晶氏による『神曲』についての論文は数報所在は確認できているのだが、該当のの学会誌を閲覧できる環境が私の周りになかなかなく(文学史弱。。)、唯一、一般書籍で拝読できるものが大学の図書館で入手できた。

 

                    「失われた自筆原稿を求めて

            ーダンテ『神曲』のテキストを読むということ」

     出典:『書物の来歴、読者の役割』2013年 慶応義塾大学出版

                       著者/編集 松田隆美

                       

 

これは、地獄篇序歌となる第一歌冒頭の三行の解釈を、翻訳にあたってどのように検証するか、という内容が、2万字以上に及び説かれているドラマチックな内容。

 

    Nel mezzo del cammin di nostra vita

  mi ritrovai per una selva oscura,

  ché la diritta via era smarrrita.

                La Commedia secondo l’antica vulgata, 2Inf.,

                  a c. G. Pettrocchi, Le Lettere, 1994

 

    Nel mezzo del cammin di nostra vita

   mi ritrovai per una selva oscura

   che la diritta via era smarrita.

                      La Divina Commedia, Inf.,

                 a c. N. Sapegno La Nuova Italia, 1991.

 

前者、今回の新訳底本とされたというペトロッキ版と、後者、ナタリーノ・サペーニョの注釈版とで、行目末のvirgolaおよび、3行目頭 cheへのaccent それぞれの有無を、どう扱うかの判断に迫ってゆく。

(たとえば、cheのアッチェントは同音異義語を表すため有無で意味が変わる。また、印刷技術が無かった1300年代の写本には、正書法が確立されていゆえに、著者の意図を伝えるための記号は存在しない。なので当然、発言を示す鉤括弧などセリフの概念すら無いのだそうだ)

これらの検証の解決(というか訳者の決断)が、以降14千行あまりの行く末を決める、という覚悟がここにあった。その妥協を許さない態度は爽快であり、論文内は節の処理の美しさまで際立っている。本当にこの先生の文章は洗練されていて美しい。

冷静になって考えると、最初の三行でこれだけのエネルギーを使っていて、この先残りの1万4230行、この方の命の灯火は最後まで持つのだろうか、と心配にすらなった。

>元気に毎月講義をしてくださっておりますので、大丈夫です。

 

この論文を先に読み終えることで、地獄篇へ立ち向かう私のスピードが格段に増した。繰り出される言葉は、みるみる自分に吸収されていき、その世界との対話が始まる。その世界は、登場人物のダンテ、その導き手となるウェルギリウス、著者であるダンテは訳者である原基晶氏の筆を借りそこに存在する。そして読者となる私。地獄の道行きには恐縮なほどの大所帯となり、ウェルギリウス以外は生身の総勢5名の旅だ。

 

f:id:itifusa:20151116010702j:plain家での読書は傍にこの2冊。あるととっても便利。

下るほどに残忍さを増す旅路の途中、あまりのむごさに涙したり、事実の理不尽さに驚き歯噛みしたり、切り立つ崖に阻まれくじけた心をウェルギリウスに癒され、また進む。後半のウェルギリウスが時間という軸でダンテを急き立て始める様は、どこか人間味があって面白い。高踏な言葉の世界にある彼が、下劣な会話に聞き入るダンテを叱責するシーンは、二人のやりとりを前に吹き出してしまっていた。

前後するが、二十四歌で次なる巣窟へ進むための断崖を登り力をなくすダンテをウェルギリウスが言葉で奮い立たせる。世に正しく伝えたくば、ここで打ちひしがれている場合ではないと。これはまさにダンテが伝えたかったことを世にもう一度正しく伝えようとする訳者が向き合った言葉ではなかろうか。こうやって何ども、言葉に心が震えるのだ。

 

神曲』はただの詩集ではない。

ただひとえに、神を信じ崇めることを奨励する賛美歌集でもない。

だから、並んだ言葉の上をただ目を走らせ、描かれた情景をイメージするに終始するのでは「読んだ」ことにはならないのはうすうす感じていた。この訳本のように「そうか、で、その先は」とのめり込ませるあの冒頭数行のぐいっと手を引く力がなければ、この長い旅のスタートを切ることはできなかったと思う。読解力の乏しい私にとって、翻訳本は翻訳者のことばが自分に入って来やすいものでなければ通読は困難を極める。もともと難解な原典を難解な日本語で訳されたところで、素人には真意は伝わってこないのだ。

 先述の通り、この新訳を手に取ったのは昨年末。それまでに数ページで挫折すること記憶にあるだけで2回。持っていた私の最初の『神曲』は、それ以上のページをめくられることもなく、初めて自分のライブラリを古書店へ持って行った箱に、それは入って行ったと思う。

作品と相性が合わないのだ、とは思いたくなかった。知らないままではおけないと、ずっとどこかに引っかかっていた。

今ここで、奏でるような言葉に出会えたことが神慮であることを信じたい。

だが、地獄の旅は序章でしかない。やっと望まれて訪れる煉獄の扉を今これから改めて開かなくてはならない。それが楽しみでならない。

 

itifusa.hatenablog.com

 

あと、初めて覗き見た西洋文学会の戦いの恐ろしさも少し体感したことを付け添えておきたい(笑)

 

 

itifusa.hatenablog.com

 

 

itifusa.hatenablog.com

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eleutôn alupos

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いつからかヒンドゥークシュを越え
その先に広がる世界に魅せられて
神々が生まれた地にたどり着いた

 

若き覇者が駆け抜けた大地は、
乾いた土が音を立てて甘露を含み、泉を満たす。
豊潤なる源は、絶え間なく神々を生み、信仰を織り成す。

 

覇者が見ようとした世界、その姿をただ追い続け、山脈に赤い月を望む。
とがった岩山の頂きには陰ることの無い太陽が在り
争いと秩序の均衡は、牡牛の血脈から溢れ出し、
その大いなる川は交わり、街に豊かな実りが約束される。

 

ここには、今へつながる「全て」があるのだけど
いずれは絹の道を東へ、帰路につきたい気持ちに変わりはない。

 

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シャーロットさんのおくりもの

月が綺麗な晩に

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シャーロットさんがいなくなった。
蜘蛛の生態なんてぜんぜん知らないから、名前などつけたら別れの時に辛くなると思っていたけど、やはりそれは突然やってきた。

シャーロットさんは賢い蜘蛛だった。
はじめてウチに来た朝、勝手口のドアに立派な巣を張っていたため、私が図らずも出がけに解体してしまうことに。


その場で、人との共存についてと、設営可能ポイントを指し示し、15分ほど説教した。
シャーロットさんはそれを、移動して巣を修復しながらちゃんと聞いていた。なぜなら、次の日、私が指し示したポイントを使って、立派な巣を完成させていたのだ。人が出入りしても絶対に引っかからないポイントを使って。

 

そうやって、勝手口のシャーロットさんとの暮らしが始まった。
家族全員がシャーロットさんを見守り、背後に常夜灯のあるシャーロット邸は大物かかり放題。
見る間に10センチ大の女郎蜘蛛に成長し、家の周りで一番立派な蜘蛛となっていた。

 

そんな日々のかな時には、

シャーロットさんはこのまま冬を越すことはできないということ、

オスかメスかもわからないこと、

いつかはこの巣を残していなくなってしまうのかもしれない。

なぜいなくなったかの理由はわからないままになるのかもしれない。

死んでしまったのかもしれないし、私が知らない天敵に襲われたのかもしれない。

単に転居してしまっただけなのかもしれない。

けど、その時に、私はおそらく本当の理由もわからず、この共存は終わってしまうのかもしれない。と想像して切なくなったりすることもしばしば増えてきていた。

 

今日はまさにその日だった。

シャーロットさんとは、帰りが遅くなった昨晩にコミュニケーションをとったのが最後だった。
昨晩も大物のマツムシを捕獲し吸引中であった。
「お、今晩もご馳走だね♪」と声をかけた私に、吸引を止めることなく一瞥をくれた。


今朝、私は勝手口から出かけずに、玄関から出たため、シャーロットさんにはあっていない。

シャーロットさんとの別れは予感していたものの、
小さな子供達を残されて、悲鳴を上げつつも、一匹づつに軒下を配分したり、
「エリコハヨイコ」などと、メッセージを残してくれるのではいかなどと、感動的なエンディングすら想像していたが、あまりに突然であっけなく。

 

このまま、主人を失い残されたシャーロットさんの巣は荒廃していくのだろう。

なんだか寂しい。


シャーロットさん、さよなら。

 

信仰が先か、言葉が先か。

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信仰が先か、言葉が先か。

 

言葉がすべてを導く。

宇宙はその名を得た時に広がりをみせる。

名を与えられ時が動きだす。
名は言葉なのか。

 

信仰がすべてを導き出す。
造形では満ち足りない信仰が言葉を導き出した。

 

祈り、誓い、求め、願う。
畏敬、束縛、主張、破壊。

『神曲』新訳 翻訳者原基晶先生の講座3回目 

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読むといっても、神曲から何を読み取るのかということ。
著者であり登場人物であるダンテが追い込まれた環境と、世界の転換期。

彼がそれに何を吐露し伝えたかったのか。

 

講義で当時の歴史観が解かれていく様は歴史脳がびんびん呼び起こされるので、暴走を抑え、古典文学の枠を意識しつつイメージを広げていく作業がなんとも刺激的。

 

 

神曲』地獄篇 第四歌 39行 (前後略)

 

 そしてこのような者達の中に私自身もいる。

 

切ない。この一行がなんとしても切ない。
地獄の第一圏リンボに入り、その光景の意味を問わないダンテにウェルギリウスが自ら語る中の一節だ。

ページ中最終行に来ているという相乗効果なのか?と疑うほどに、言葉のトーンが生きている。

今回はそのことを先生に是非とも話したかったのだが、それに対するダンテの反応の薄さも合わせて講義で触れられたので、そうか、よかった。納得。

 

第1歌で光り輝く徳のごとく現れダンテの導き手となるウェルギリウスは、しかしこの世界でいう「神」を知ることがなかったために、希望も望めず、断罪すらされることのない虚空、リンボに影としてある。

第四歌で、ダンテは古の死者達の罪を選別し、それぞれの地獄圏に定義していくが、登場人物のダンテはウェルギリウスのこの言葉をあまりにあっけなく流す。

「ここでいきなり?!」という大きな動揺と重い切なさに襲われているこちらとのギャップは凄まじい。
ここで再度第1歌を読み返せば、よくよくその切なさも増しつつロジックがまた一つ埋まるわけだが。

ダンテにしてみれば、「ああ、そういうことであれば、そうですね、あなたはここにあるわけですね」という当然の反応であったのだろうか。

どうやら、彼らの世界観では、正しければ天国へ昇れるというわけではないのだ。
「神」は信じて敬われることでその存在を得ているということか。
あ、ダメだ、その解釈では異端者として第6圏で石棺にいれられる。

 

追い詰められた現実にダンテが見ていたもの。そのあとを追う旅はまだまだつづく。

 

他の訳本で『神曲』を手にしたのはもうかなり前のこと。見事に挫折した。

信仰とは、人に言葉を与え、倫理と術、そして文明と争いをもたらした、生の根幹だと思っている。猿に与えたボールペンなのだ。
はじめはそれを確かめたくて、辿り初めた道だった気がする。

 

今はその高貴であるはずの信仰がまた歪みを見せはじめている。

人はその階層に隔たりなくただ平穏な営みを得ることを、争うことで発展をしてきた長い歴史の終着地に見いだせるはず。

人類が犯してきた罪によって理性を高めてきたのなら、なお700年を経た今、言葉で説き、文明の知力でそれを求める時なのだと、彼は言うのかもしれない。

 

原先生の翻訳はここまで思考を暴走させる。美しくも重厚に放たれる言葉も、揺るぎない知識も、神がこのために授けたのではないのだろうか。

素晴らしい出会いに感謝している。

 

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